個人事務所は売却できるのか?株式のない鑑定事務所を事業譲渡で引き継ぐ手順と5つの注意点
個人で鑑定業者登録している事務所は株式がないため、売却の方法は事業譲渡に限られます。承継対象の仕分け、買い手側の新規登録と第22条・第35条の要件、旧代表の並走、個人事業特有の税務まで、個人事務所を次の鑑定士へ引き継ぐ手順を不動産鑑定士が整理します。
「法人化していない個人事務所だから、売るものなんてない」。そう考えて廃業を選ぼうとしている鑑定士は少なくないのではないでしょうか。たしかに個人事務所には株式がなく、会社ごと売るという選択肢はありません。しかし、顧客との関係、公的評価の受託実績、事務所の賃借権、蓄積された評価資料は、次の鑑定士にとって十分に価値のある「事業」です。この記事では、個人事務所の売却がなぜ事業譲渡に限られるのか、何をどう引き継ぐのか、買い手側で必要な登録手続と税務の注意点を、不動産鑑定士の立場で整理します。
個人事務所の売却は「事業譲渡」一択になる
株式がなければ株式譲渡はできない
M&Aの手法は大きく株式譲渡と事業譲渡に分かれます(違いはM&Aの種類の記事で整理しています)。株式譲渡は会社の持ち主が変わるだけで、法人格も契約も登録もそのまま続きます。一方、個人の鑑定業者登録は、あなた個人に紐づいた登録です。売る対象となる「株式」が存在しないため、事業を構成する資産・契約・関係を一つずつ買い手に移す事業譲渡しか選べません。
鑑定業者登録は承継されない
ここが個人事務所に固有の論点です。不動産鑑定業を営むには国土交通大臣または都道府県知事の登録が必要ですが(不動産の鑑定評価に関する法律第22条)、この登録は事業譲渡では買い手に引き継がれません。買い手が鑑定業者として未登録なら新規登録が、すでに登録業者なら事務所追加の手続が必要になります。あなたの側では、廃業から30日以内に廃業等の届出(第29条)を行うことになります。
つまり、契約を結んだ翌日から買い手が鑑定評価を受任できるわけではありません。登録手続の期間を見込んで、譲渡日と業務引継ぎ日を分けて設計する必要があります。詳細は鑑定業者登録の承継の記事をご覧ください。
何を引き継ぐのか——承継対象の仕分け
事業譲渡は「まとめて売る」のではなく、「何を移すか」を一つずつ決める取引です。個人事務所で典型的に仕分けが必要な対象は次の5つです。
| 承継対象 | 移す方法 | 注意点 |
|---|---|---|
| 顧客関係・受託契約 | 紹介と契約の巻き直し | 公的評価は承継可否を個別確認 |
| 事務所の賃借権 | 貸主の承諾を得て契約者を変更 | 承諾を拒まれる可能性がある |
| 備品・什器・書籍 | 売買(資産目録を作成) | 帳簿価額と実勢に差が出やすい |
| 評価データ・事例資料 | 引渡し(保存義務との整理) | 個人情報・守秘義務の確認 |
| 屋号 | 使用許諾または譲渡 | 商標登録の有無を確認 |
顧客関係と公的評価の扱い
民間顧客(金融機関、士業、不動産会社)は、あなたが買い手を紹介し、買い手が改めて関係を築くことで移ります。一方、公的評価は性質が異なります。地価公示の鑑定評価員は個人として委嘱されるため、事業譲渡で買い手に移るものではありません。固定資産税の標準宅地評価は自治体との契約、競売評価人は裁判所の選任なので、次期の契約や選任で買い手が受託できるかは個別に確認が必要です。「公的評価の売上も込みで」と買い手に期待させないよう、最初に事実を伝えることが交渉の信頼につながります。
賃借権・備品・データ・屋号
事務所の賃貸借契約は、貸主の承諾なしに買い手へ移せません。地方都市の個人事務所では自宅兼事務所のケースも多く、その場合は買い手が新しい事務所を構える前提で話を進めます。備品は資産目録を作り、一点ずつ譲渡対価に含めるか判断します。過去の鑑定評価書や取引事例の資料は、業者としての保存義務と、依頼者に対する守秘義務の両面から、引き渡す範囲を整理してください。屋号は「○○不動産鑑定事務所」のように地域で知られている場合、買い手が使い続けたいと望むことがあります。商標登録の有無を確認したうえで、使用許諾か譲渡かを決めます。
買い手側の手続と旧代表の並走
買い手の登録手続
買い手が独立を目指す勤務鑑定士であれば、個人または新設法人としての新規登録(第22条)が必要です。事務所ごとに専任の不動産鑑定士を置く要件(第35条)は、買い手自身が鑑定士であれば満たせます。買い手がすでに他県で登録している鑑定業者なら、事務所の追加によって2以上の都道府県に事務所を持つことになり、知事登録から大臣登録への切り替えが必要になる点に注意が必要です。
旧代表の並走がほぼ必須になる理由
個人事務所の顧客は、事務所ではなく「あなた」に依頼しています。買い手が同じ品質の鑑定評価書を出しても、顧客が慣れるまでには時間がかかります。想定されるケースとして、地方都市で地価公示評価員と固定資産税評価を受託する70代の鑑定士が、独立希望の40代勤務鑑定士へ事業譲渡し、旧代表が2年間並走するという形があります。この2年は、公的評価の年次サイクルを2回まわし、民間顧客に買い手を紹介しきるための期間です。並走の設計と報酬の考え方は並走期間の記事で詳しく扱います。
注意
個人事業ならではの税務の注意
法人の株式を個人が売る場合、譲渡益は原則として分離課税ですが、個人事業の事業譲渡では、対価の内訳ごとに所得の区分が変わります。営業権(のれん)に相当する部分は一般に総合課税の譲渡所得として扱われ、その年の他の所得と合算されます。備品は資産の種類によって扱いが分かれ、あなたが消費税の課税事業者であれば、譲渡した資産に消費税がかかる可能性もあります。
譲渡する年にどれだけ他の所得があるか、対価の内訳をどう配分するかによって手取りが変わるため、契約書の対価配分を決める前に必ず税理士へ相談してください。具体的な税額・適用可否は税理士にご確認ください。
専門家への確認
まとめ
個人事務所の売却は事業譲渡に限られますが、承継対象を丁寧に仕分けし、買い手の登録手続と並走期間を組み込めば、廃業よりもはるかに多くのものを次の鑑定士に残せます。ポイントは3つです。第一に、鑑定業者登録は移らないので、譲渡日と業務開始日を分けて設計すること。第二に、公的評価は承継の対象外または個別確認が必要と、最初に買い手へ伝えること。第三に、対価の内訳と税務は契約前に税理士へ確認すること。
「まだ売れるかわからない」段階でも、売却相場のシミュレーターで概算を把握し、売却の流れを見ていただくだけで、廃業か承継かの判断材料になります。後継者がいない個人事務所のオーナー鑑定士の方は、事業承継のページもあわせてご覧ください。ぜひ一度ご相談ください。初回の無料相談も承っております。
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執筆者
吉田 健人代表取締役社長・不動産鑑定士
外資IT企業で法人営業に従事するかたわら、不動産鑑定士として株式会社KRE Appraisalを設立。鑑定実務と外資ITの営業・M&A支援の経験を活かし、不動産鑑定会社のM&A・事業承継を支援している。
不動産鑑定士/宅地建物取引士/賃貸不動産経営管理士
鑑定会社の売却・買収・承継を、同業の鑑定士に相談する
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