職員の雇用は本当に守れるのか?鑑定事務所の売却で盛り込むべき雇用条件の作り方
鑑定事務所を売却するとき、長年支えてくれた職員の雇用をどう守るか。株式譲渡と事業譲渡での雇用契約の違い、雇用維持条項と処遇維持期間、退職金の扱い、告知の順序と面談、キーパーソンの残留インセンティブまで、契約に落とし込む方法を不動産鑑定士が整理します。
「自分は引退できても、20年一緒にやってきた事務員や若手鑑定士を放り出すことはできない」。鑑定事務所のオーナーが売却をためらう理由として、価格より先に出てくるのがこの言葉ではないでしょうか。結論から言えば、職員の雇用は「買い手の善意」ではなく「契約の条項」で守るものです。ただし、株式譲渡か事業譲渡かで雇用契約の扱いは根本から異なり、条項にも限界があります。この記事では、手法ごとの違い、契約に盛り込む雇用維持条項、退職金の扱い、告知の順序と面談、キーパーソンの残留インセンティブを、不動産鑑定士の立場で整理します。
株式譲渡と事業譲渡で雇用の扱いはこう違う
株式譲渡なら雇用契約はそのまま続く
株式譲渡は会社の株主が変わるだけで、法人格は継続します。雇用契約の当事者は会社のままなので、職員の同意は不要で、雇用契約・就業規則・退職金規程・社会保険はすべてそのまま続きます。鑑定業者登録も維持され(役員や専任鑑定士の変更届出は必要)、職員から見れば「社長が変わった」以上の変化は起きません。想定されるケースとして、都内の鑑定士3名の法人が拠点拡大を狙う中堅鑑定会社へ株式譲渡し、職員全員の雇用を維持するという形を考えると、法的な仕組みの面では株式譲渡が最も雇用を守りやすい手法です。
事業譲渡は一人ひとりの同意が必要
事業譲渡では、雇用契約は自動的には移りません。職員一人ひとりが買い手との間で新たに雇用契約を結ぶ(転籍する)ことに同意する必要があります。同意しない職員は売り手側に残りますが、売り手が廃業するなら退職扱いになります。つまり事業譲渡では、「雇用を守る」とは「全員が転籍に同意できる条件を買い手に用意させる」ことを意味します。個人事務所は事業譲渡しか選べないため、この点はとくに重要です(手法の違いはM&Aの種類の記事を参照)。
注意
契約書に盛り込む雇用維持条項
雇用維持条項と処遇維持期間
最終契約書(株式譲渡契約書または事業譲渡契約書)に、次の内容を条項として入れることが一般的です。
| 条項 | 内容 | 設定の目安 |
|---|---|---|
| 雇用維持条項 | 譲渡後、一定期間は会社都合の解雇・退職勧奨を行わない | 2〜3年 |
| 処遇維持条項 | 給与・賞与・手当・勤務地を一定期間は不利益に変更しない | 1〜3年 |
| 就業規則の維持 | 統合する場合も、不利益変更には職員の同意を得る | 統合完了まで |
| 退職金の承継 | 退職金規程と積立(中退共等)を承継する | 譲渡時に確定 |
期間は「案件による」というのが正直なところです。買い手にとって雇用維持条項は経営の自由を縛る約束なので、長すぎると譲渡価額の引き下げ要因になります。私たちは、雇用維持は2〜3年、処遇維持は1〜3年をひとつの目安として、買い手の事業計画と照らして調整することをおすすめしています。
退職金の扱い
退職金は、売却時に最も見落とされやすい論点です。株式譲渡なら退職金債務は会社に残るため、買い手はデューデリジェンス(買収監査。財務・法務・労務の実態を調査する手続)で退職金の未積立額を確認し、譲渡価額から差し引こうとします。事業譲渡なら、転籍時にいったん退職金を精算するか、勤続年数を通算して買い手が引き継ぐかを選びます。精算する場合、職員は退職金をその時点で受け取ることになり、通算する場合は買い手が債務を引き受けます。どちらが職員にとって有利かは規程と勤続年数によるため、具体的な税額・適用可否は税理士にご確認ください。
条項の限界を理解する
雇用維持条項があっても、買い手が経営難に陥れば整理解雇の可能性はゼロになりませんし、職員自身が新しい環境になじめず退職することも止められません。条項は「買い手の恣意的な解雇を防ぐ」ものであって、「職員の将来を保証する」ものではありません。だからこそ、条項と並行して、職員が「残りたい」と思える環境を買い手と一緒に作ることが必要です。
専門家への確認
告知の順序と面談
順序を間違えると条項が意味を失う
告知の順序は、(1)キーパーソンへの個別打診、(2)最終契約の締結、(3)全職員への一斉説明、(4)個別面談、(5)顧客への通知、が基本です。全職員への説明は、最終契約締結後に、売り手と買い手が同席して行います。売り手だけで説明すると「捨てられた」と受け取られ、買い手だけで説明すると「乗っ取られた」と受け取られます。情報が先に漏れると、この順序が崩れて条項の意味が薄れるため、秘密保持の記事で述べた情報管理が前提になります。
面談で伝えるべきこと
個別面談では、次の3点を具体的に伝えます。雇用と処遇が契約でどう守られているか(条項の内容と期間)、仕事の中身が変わるのか(担当顧客、勤務地、報告先)、そして質問や不安をいつ誰に言えばよいか。「変わらない」と抽象的に言うより、「給与と勤務地は3年間変わらないことが契約に書いてある」と示すほうが、職員の安心は確実です。
キーパーソンの残留インセンティブ
鑑定事務所では、専任鑑定士や主要顧客を担当する鑑定士が抜けると事業価値が大きく毀損します。想定されるケースとして、不動産会社が鑑定士2名の法人を株式譲渡で取得する場合、専任鑑定士要件(不動産の鑑定評価に関する法律第35条)を満たすために鑑定士2名の残留が最重要条件になります。
こうしたキーパーソンには、雇用維持条項とは別に残留インセンティブを設計します。代表的なものは、一定期間の残留を条件とする残留一時金(リテンションボーナス)、役職や裁量の明確化、将来の株式取得や役員登用の道筋です。売り手が譲渡対価の一部を原資にして職員へ功労金を支払う設計もあります。ただし、金銭だけで人は残りません。買い手側の代表が面談で「あなたにこの事務所の評価を任せたい」と伝えることが、条項より効くことも多いのです。譲渡後の顧客と職員の引き継ぎについてはPMIの記事をご覧ください。
まとめ
職員の雇用は、株式譲渡なら法的に継続し、事業譲渡なら個別の同意が必要です。どちらの場合も、雇用維持条項と処遇維持期間を契約書に書き、退職金の扱いを確定し、告知の順序を守ったうえで、キーパーソンには個別の残留インセンティブを用意する。この組み合わせが、買い手の善意に頼らない雇用の守り方です。
雇用維持を売却条件の中心に据えたい方は、売却のページと想定されるケースをご覧ください。条件設計の段階から、ぜひ一度ご相談ください。初回の無料相談も承っております。
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執筆者
吉田 健人代表取締役社長・不動産鑑定士
外資IT企業で法人営業に従事するかたわら、不動産鑑定士として株式会社KRE Appraisalを設立。鑑定実務と外資ITの営業・M&A支援の経験を活かし、不動産鑑定会社のM&A・事業承継を支援している。
不動産鑑定士/宅地建物取引士/賃貸不動産経営管理士
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