売却後も過去の鑑定評価書に責任を負うのか?鑑定会社M&Aの表明保証と補償の線引き
株式譲渡契約の表明保証では何を約束させられるのか。鑑定会社では財務・労務・許認可に加え、過去に交付した鑑定評価書の責任が論点になります。保存義務5年と民事上の時効の違い、補償上限・期間・デミニミスという線引き、表明保証保険の使いどころを鑑定士が整理します。
「株式を譲渡したあとに、8年前に自分が署名した鑑定評価書のことで責任を問われたら、誰が払うのか」。鑑定事務所の売却相談で、最終契約書のひな型をお見せした瞬間に出てくるのがこの質問です。価額の交渉が終わり、あとは調印だけという段階で、株式譲渡契約書に「表明保証」という見慣れない条項が何ページも並んでいる。不安になるのは当然です。
表明保証(当事者が相手方に対し、一定時点における事実が真実かつ正確であることを表明し、保証する条項)は、M&Aの最終契約にほぼ必ず設けられます。中小企業庁「中小M&Aガイドライン(第3版)」(令和6年8月)も、期間や責任上限が設定されていない場合などには譲り渡し側が過大な責任を負担し、当事者間で争いが生じるおそれがあると指摘しています。表明保証は、避けるものではなく、線を引くものです。
そして鑑定会社のM&Aには、一般の中小企業にはない固有の論点があります。過去に交付した鑑定評価書の責任です。ここでは、鑑定会社に特有の項目、責任がいつまで残るのか、そして補償上限・期間・保険という交渉の落としどころを、私たち鑑定士の視点で整理します。
表明保証とは何を約束させられるのか
将来の約束ではなく「事実の正確性」の保証
表明保証は、これからこうしますという約束ではありません。調印時点および実行時点において、一定の事実が真実かつ正確であることを保証するものです。典型的な項目は、会社が適法に存続していること、譲渡対象の株式を売り手が適法に保有していること、計算書類が正確であること、簿外債務や未払残業代が存在しないこと、係属中の訴訟がないこと、許認可が有効であること、税務申告が適正であることなどです。
保証した事実が違っていた場合、売り手は損害を補償する義務を負います。大切なのは、故意に隠したかどうかを問わないのが原則だという点です。知らなかった事実でも、保証した以上は責任の対象になりうる。ここが売り手の感覚とずれやすいところです。
デューデリジェンスで埋まらない部分を引き受けさせる仕組み
買い手はデューデリジェンス(買収監査。財務・法務・業務の実態を調査する手続)で対象会社を調べますが、時間と費用には制約があり、譲渡価額が1億円に満たない小規模案件では調査範囲を絞らざるをえません。調べきれなかった部分のリスクを埋めるのが表明保証です。調査が薄いほど表明保証は厚くなる、という関係が生まれます(決算書に出ない10のデューデリジェンス項目)。
裏を返せば、資料を揃えて論点を先に開示するほど、表明保証の範囲は狭くできます。情報を出し渋ることは、そのまま自分の責任を重くする行為です。
なお、法人格ごと引き継ぐ株式譲渡では簿外債務も過去の紛争もそのまま移るため、承継対象を個別に特定する事業譲渡より表明保証は厚くなります(株式譲渡と事業譲渡の比較)。
鑑定会社に特有の表明保証項目
過去に交付した鑑定評価書に関する保証
一般のひな型には出てきませんが、鑑定会社のM&Aでは、過去の鑑定評価業務そのものを対象とする表明保証を求められることがあります。交付した鑑定評価書が不動産鑑定評価基準および関係法令に従って作成されていること、依頼者または第三者から損害賠償の請求を受けておらず、請求を予見させる申入れも受けていないこと、といった条項です。
鑑定評価書は、後から結果が出てから当否を争われる性質の成果物です。担保評価なら回収局面で、相続や遺産分割なら税務調査や審判の場で、価格の妥当性が改めて問題になります。買収した会社に過去案件の火種が眠っていないかは、買い手にとって決算書のどこにも書かれていない最大の不確実性です。
登録・専任鑑定士・公的評価・職員まわり
鑑定業者登録が有効に存続し、監督処分や行政指導を受けていないこと、事務所ごとに専任の不動産鑑定士が配置されていること(不動産の鑑定評価に関する法律第35条)も保証の対象になります。株式譲渡では登録も続きますが、それが瑕疵なく維持されてきたかは別問題です(鑑定業者登録の承継手続)。
地価公示の分科会、都道府県地価調査、固定資産税評価、競売評価といった公的評価の受託資格は個人の鑑定士に紐づく部分が大きく、そもそも承継できるとは限りません。買い手が受託の継続まで保証させようとしてきた場合、売り手は保証できる範囲を厳密に切り分ける必要があります(公的評価は引き継げるか)。職員まわりでは、非常勤鑑定士や外注先への報酬が業務委託の実態を伴っているか、社会保険の加入漏れや未払残業代がないかが定番の論点です。
| 項目 | 一般企業と共通 | 鑑定会社の論点 |
|---|---|---|
| 財務 | 計算書類の正確性 | 期末をまたぐ受注の計上時期 |
| 労務 | 未払残業代、社会保険 | 非常勤・外注先の委託実態 |
| 許認可 | 許認可の存続 | 鑑定業者登録、専任鑑定士 |
| 訴訟 | 係属中の訴訟 | 過去の鑑定評価書への請求 |
もうひとつ交渉の焦点になるのが「売り手の知る限り」という限定です。この一文が入れば、認識していなかった事実については責任を負いません。案件数が多く全件を把握しきれない過去の鑑定評価書については、この限定を求める合理性があります。買い手は当然に嫌がりますので、後述する補償上限や期間とセットで交渉するのが現実的です。
「過去の鑑定評価書」の責任はいつまで残るのか
行政上の保存義務は5年
不動産の鑑定評価に関する法律施行規則第38条第2項は、保存すべき書類を鑑定評価書の写しのほか対象不動産等を明示するに足りる図面、写真その他の資料と定め、その保存期間を5年としています。多くの事務所はこの5年を一区切りに資料を整理しているはずです。ただし、これはあくまで行政上の保存義務であって、責任がそこで消えるという意味ではありません。
民事上の責任は5年・10年・20年の枠組みで残る
依頼者に対する債務不履行責任は、民法第166条第1項により、権利を行使できることを知った時から5年、または権利を行使できる時から10年で時効消滅します。第三者に対する不法行為責任は、民法第724条により、損害および加害者を知った時から3年、または不法行為の時から20年です。理屈のうえでは、交付から10年以上が経った鑑定評価書についても請求が届く可能性はゼロとは言えません。
専門家への確認
時効の起算点、完成猶予・更新の有無、責任の成否そのものは、個別の事実関係によって結論が変わります。具体的な案件については弁護士にご確認ください。
想定されるケース:8年前の担保評価
ある事務所が8年前、地方銀行の依頼で事業用地の担保評価を行ったとします。借り手が返済不能となり任意売却を進めたところ、評価額を大きく下回る水準でしか売れず、銀行が「開発の実現可能性の判断が誤っていた」と主張して法人に損害の賠償を申し入れてきた──という展開です。
株式譲渡でこの法人を引き継いでいた場合、請求の相手は現在の株主ではなく法人です。応訴費用も和解金も買い手が負担し、買い手はこれを表明保証違反として元の売り手に補償を求めます。表明保証と補償は、まさにこの場面を想定した条項です。
このとき決定的に効くのが、資料が残っているかどうかです。保存期間の5年を過ぎて根拠資料を廃棄していると、当時の判断が合理的だったことを示す材料がありません。保存義務の期間を過ぎた案件についても、評価書の写しと主要な根拠資料は電子化して保管しておくことをおすすめします。買い手への説明材料にもなり、価格交渉でも効きます。
補償の線引き:上限・期間・最低請求額
上限・期間・足切りの3点で総額を管理する
補償上限(キャップ)は、表明保証違反があった場合に売り手が負う責任の総額の上限です。中小企業のM&Aでは譲渡価額の10%から30%程度に設定される例が多いとされます。受け取った対価を超える責任は負わない、という線を出発点に置くのが自然です。
期間(サバイバル期間)は一律である必要はありません。一般項目を1年から2年、税務や社会保険のように行政の更正・徴収の期間制限がある項目を5年から7年とするなど、項目ごとに分ける設計が一般的とされます。鑑定会社では過去の鑑定評価書について買い手が長期を求めてきますが、期間と上限を別枠で設定して総額を管理するのが現実的です。
デミニミス(1件あたりの最低請求額。これを下回る損害は請求できない定め)とバスケット(損害の累計額が一定額を超えた場合にのみ請求できる定め)は、売り手を守る二重の歯止めです。これがないと数万円単位の指摘が延々と持ち込まれます。
数値で見る交渉の落としどころ
譲渡価額8,000万円の株式譲渡を想定します。
| 条件 | 買い手案 | 売り手案 | 落としどころ |
|---|---|---|---|
| 補償上限 | なし | 10%・800万円 | 20%・1,600万円 |
| 一般項目 | 3年 | 1年 | 1年6か月 |
| 税務・社保 | 7年 | 3年 | 5年 |
| 鑑定評価書 | 定めなし | 1年 | 3年・上限500万円 |
| デミニミス | なし | 100万円 | 50万円 |
| バスケット | なし | 500万円 | 300万円 |
この条件なら、実行後2年目に過去の残業代の未払が累計180万円分見つかってもバスケット300万円に届かず、請求はできません。累計450万円の損害が確定した場合は、超過分の150万円のみが請求対象です(超過分のみ請求できる方式の場合)。過去の鑑定評価書に関する請求は実行から3年を過ぎれば持ち込めず、3年以内でも別枠の500万円が天井になります。
線を引くとは、こういう作業です。文言を1条ずつ削る交渉よりも、上限・期間・足切りという3つの数字を決めるほうが実効性は高いと断言します。
表明保証保険と、売り手が調印前にできること
表明保証保険という選択肢
表明保証保険は、表明保証違反があった場合に譲り渡し側または譲り受け側が被る損害を填補する保険です。中小M&Aガイドライン(第3版)も、違反に関するリスクを保険会社に引き受けさせることで、表明保証や補償の範囲に関する当事者間の交渉が円滑化する場合があると位置づけています。上限や期間をめぐって膠着したとき、売り手の直接責任を抑えたまま買い手の安心を確保できる可能性があります。
費用面では、事業承継・M&A補助金(専門家活用枠)において表明保証保険料が補助対象経費に含まれています。補助率・上限額・対象経費の範囲は公募回ごとに異なりますので、最新の公募要領をご確認ください。ただし保険には引受審査があり、デューデリジェンス報告書の提出を求められるのが通常で、譲渡価額が数千万円規模の案件では負担が見合わないこともあります。まず上限・期間・デミニミスの交渉で足りるかを検討し、折り合わない論点が残ったときの選択肢として持っておくのが実務的です。
調印前にやっておく3つのこと
第一に、過去の鑑定評価業務の棚卸しです。直近10年程度について、依頼目的別の件数、主要な依頼者、価格の争いになった案件、再評価や説明を求められた案件を一覧にします。第二に、資料の保管です。保存期間を過ぎたものも含め、評価書の写しと根拠資料を電子化しておきます。第三に、開示リストの作成です。ディスクロージャー・スケジュール(表明保証の例外を一覧にした別紙)に記載した事項は表明保証の対象から外れます。再評価や説明を求められた案件があるのなら、隠すのではなく別紙に書く。これが最も確実な免責です。この3つは売却の直前に慌ててできるものではなく、売却は引退3年前から で述べた準備期間に組み込んでおくべき作業です。
契約書は弁護士に、税務は税理士に
表明保証条項・補償条項の文言設計、責任の限定が有効に働くかどうかの判断には法律上の評価が必要です。調印前に弁護士にご確認ください。補償金を支払った場合・受け取った場合の税務上の取扱いは税理士にご確認ください。当社は中小M&Aガイドライン遵守を宣言しており、その内容は 中小M&Aガイドライン遵守宣言 に公開しています。
まとめ
表明保証は、避けるための条項ではなく、責任の範囲を数字で確定させるための条項です。鑑定会社のM&Aでは、財務・労務・許認可という共通項目に加えて、過去に交付した鑑定評価書という業種固有のリスクが必ず論点になります。要点を振り返ります。
- 表明保証は調印時点・実行時点の事実の正確性を保証するもので、売り手が知らなかった事実も原則として責任の対象になる
- 鑑定会社では、鑑定評価書が基準・法令に従って作成されていること、過去の請求や申入れがないことを求められる。鑑定業者登録と専任鑑定士(第35条)、公的評価の受託資格も定番の項目
- 保存義務は5年(施行規則第38条第2項)だが、民事上の責任は債務不履行で5年・10年、不法行為で3年・20年という別の枠組みで残る
- 交渉の主戦場は文言よりも数字。補償上限(譲渡価額の10%から30%程度が目安とされる)、項目別の期間、デミニミスとバスケットの3点で総額を管理する
- 懸念事項は別紙に書いて免責を取る。折り合わない論点が残る場合は表明保証保険も選択肢になる
後継者の当てがないまま事務所を続けてこられたオーナー鑑定士様にとって、過去の鑑定評価書に対する漠然とした不安は、売却に踏み切れない大きな理由のひとつだと感じています。ですが、その不安は数字で線を引ける性質のものです。棚卸しをして、開示して、上限と期間を決める。順序を踏めば、譲渡後に眠れない夜を過ごす必要はありません。
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鑑定業者の登録や専任の不動産鑑定士、公的評価の扱いまで含めた承継の全体像は鑑定会社のM&A・事業承継のページでまとめています。

執筆者
吉田 健人代表取締役社長・不動産鑑定士
外資IT企業で法人営業に従事するかたわら、不動産鑑定士として株式会社KRE Appraisalを設立。鑑定実務と外資ITの営業・M&A支援の経験を活かし、不動産鑑定会社のM&A・事業承継を支援している。
不動産鑑定士/宅地建物取引士/賃貸不動産経営管理士
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