買い手は決算書のどこを見るのか?鑑定事務所が売却前に整えるべき3つの数字と正常化の実務
鑑定事務所の決算書は、そのままでは会社の稼ぐ力を表していません。買い手が最初に見る3つの数字(正常化後の営業利益・売上の構成・時価純資産)を示し、役員報酬や保険料を調整する正常化の実務を、営業利益120万円の想定ケースで不動産鑑定士が整理します。
「決算書を3期分ご用意ください」。M&Aの初回面談で、買い手や仲介者が必ず口にする一言です。ところが手元の決算書を開いてみると、営業利益はわずか数十万円、年によっては赤字かもしれません。「この数字を見せたら買い手は引いてしまうのではないか」。そう感じて、売却の相談そのものをためらってしまうオーナー鑑定士の方は少なくありません。
しかし、ここは断言します。オーナー経営の決算書は、そのままでは会社の稼ぐ力を表していません。利益は役員報酬、生命保険料、車両費といった形で分散して払い出されており、損益計算書に印字された営業利益は「節税を通り抜けた後に残った数字」にすぎないからです。経験のある買い手はそれを前提に、数字を組み替えて実質的な利益を読み取ろうとします。
この記事では、買い手が最初に見る3つの数字を示したうえで、決算書を「売れる形」に整える正常化(オーナー固有の収支を調整し、代表交代後も続く実質的な利益を求める作業)の実務を、想定されるケースの簡易シミュレーションとともに整理します。ここでいう「整える」とは、数字を作ることではありません。すでにある数字を、買い手が読める形に翻訳する作業です。
買い手が最初に見る3つの数字
1つめ:正常化後の営業利益
買い手が最も重視するのは、損益計算書の営業利益そのものではなく、正常化した後の営業利益です。理由は単純で、買い手が手に入れるのは「代表が交代した後に残る利益」だからです。現在の代表が年2,000万円の報酬を取っているなら、その報酬は買い手にとって引き継ぐべき費用ではなく、後任にいくら払うかという別の問題になります。
小規模なM&Aで実務上よく使われる年買法(時価純資産に正常化後の営業利益の数年分を加えて価格の目安を出す方法)では、この数字が価格に直接1〜3倍で効きます。相場の物差しそのものについては鑑定会社はいくらで売れるのかで詳しく整理しています。
2つめ:売上の構成と継続性
次に見られるのが、売上高の総額ではなく中身です。具体的には、依頼者別の売上構成、依頼目的別(担保評価・相続・訴訟・公的評価など)の構成、そして継続受注先の有無です。売上4,000万円のうち3,000万円が代表個人の紹介で成り立っている事務所と、金融機関・税理士法人・自治体からの継続受注で分散している事務所とでは、同じ4,000万円でも買い手の評価はまったく違います。
決算書だけではここが読めないため、買い手は必ず売上明細を求めます。求められてから慌てて作るより、先に用意しておくほうが交渉は確実に早く進みます。
3つめ:時価に直した純資産と役員借入金
3つめは貸借対照表です。買い手は帳簿の純資産をそのまま使わず、回収見込みのない売掛金の控除、事務所敷金の回収可能性、退職給付の引当不足といった修正を加えて時価純資産に直します。
もう一つ必ず確認されるのが役員借入金です。オーナーが会社に貸し付けたお金は帳簿上は負債ですが、実質的には資本に近い性格を持ちます。M&Aの場面では、譲渡と同時に返済するのか、債権放棄するのか、買い手が引き継ぐのかで取り扱いが分かれます。処理によって課税関係が変わりますので、具体的な扱いは税理士にご確認ください。
手数料の算定基礎における負債の扱い
正常化とは、具体的に何をする作業か
「オーナーだから発生している収支」を洗い出す
正常化の作業自体は難しくありません。損益計算書の費用を一つずつ見て、「代表が交代したら、この費用は続くか」と問うだけです。続かない費用なら営業利益に足し戻し、逆に今は発生していないが交代後に必ず必要になる費用があれば差し引きます。
| 調整項目 | 典型的な内容 | 調整の向き |
|---|---|---|
| 役員報酬 | オーナー報酬と後任の適正報酬との差額 | 上下どちらにも |
| 親族への給与 | 実務に従事していない配偶者・子への給与 | 足し戻す |
| 生命保険料 | オーナー個人が受益する法人契約の保険 | 足し戻す |
| 車両費・交際費 | 私的利用が中心の社用車、個人的な交際費 | 足し戻す |
| 事務所賃料 | 代表所有の建物を無償・低廉で使用している場合 | 差し引く |
| 一時的な損益 | 単発の大型案件、固定資産売却損益、補助金収入 | 除外する |
正常化は「足し戻し」だけではない
正常化と聞くと、費用を足し戻して利益を大きく見せる作業だと受け取られがちです。しかしこれは誤解です。オーナーが報酬を年300万円に抑えて利益を厚く見せている事務所なら、適正報酬との差額は差し引かれます。事務所を代表個人の建物に無償で置いているなら、適正賃料相当額が費用として加わります。
上にも下にも働くからこそ、売り手側で先に整理しておく価値があります。買い手に一方的に下方修正されるより、根拠を添えて自分から示すほうが、結果として数字は通りやすくなります。
粉飾との違いは「第三者に説明できるか」
正常化と粉飾を分けるのは、根拠の有無です。「配偶者への給与240万円は、業務日報も雇用実態もないため足し戻しています」と説明でき、通帳や契約書で裏づけられるなら正常化です。根拠を示せないまま利益だけを大きく見せれば、それは粉飾であり、デューデリジェンス(買い手が契約前に行う会社の実態調査)で必ず露見します。
中小M&Aガイドライン(第3版、令和6年8月、中小企業庁)は、仲介者・FA(フィナンシャル・アドバイザー)に対して手数料の算定基準や提供業務の具体的な説明を契約前に行うことを求めています。説明責任を重視するこの流れは、売り手が提示する数字の根拠についても同じだと私たちは考えています。
数値シミュレーション:営業利益120万円の事務所の実力
決算書に印字された姿
想定されるケースとして、地方都市で鑑定士2名(代表+勤務鑑定士1名)、事務職員1名、売上高4,800万円の法人を考えます。決算書の営業利益は120万円。これだけを見れば「ほとんど利益が出ていない会社」です。
正常化した後の姿
ここに、オーナー固有の収支を反映します。
| 調整項目 | 金額 | 考え方 |
|---|---|---|
| 決算書の営業利益 | 120万円 | 出発点 |
| 代表の役員報酬1,800万円と後任適正報酬1,000万円の差 | +800万円 | 交代後は1,000万円で足りる |
| 実務に従事しない配偶者への役員報酬 | +240万円 | 交代後は発生しない |
| 代表を被保険者とする法人契約の生命保険料 | +120万円 | 代表個人に紐づく費用 |
| 私的利用が中心の社用車の償却・維持費 | +60万円 | 交代後は発生しない |
| 代表の個人的交際費・会員費 | +40万円 | 交代後は発生しない |
| 代表所有の建物を無償使用(適正賃料相当) | ▲120万円 | 交代後は賃料が必要になる |
| 正常化後の営業利益 | 1,260万円 | 実質的な稼ぐ力 |
決算書上120万円だった利益が、正常化すると1,260万円になりました。会社の中身は何も変わっていません。変わったのは、数字の見せ方だけです。
価格に換算するとどうなるか
帳簿純資産300万円から回収不能見込みの売掛金50万円を控除し、時価純資産を250万円と置きます。年買法で営業利益の2年分を加える前提に立つと、次のようになります。
| 前提 | 正常化後営業利益 | 2年分+時価純資産 |
|---|---|---|
| 決算書のまま | 120万円 | 490万円 |
| 正常化した後 | 1,260万円 | 2,770万円 |
同じ会社でも、正常化を経ているかどうかで目安が5倍以上違います。もちろん実際の価格は買い手の評価と交渉で決まりますし、この数字が保証されるものではありません。ただ、正常化をしないまま相談に行けば、本来2,000万円台で語られるはずの会社が数百万円の話として扱われてしまう。そのリスクは現実にあります。価値をさらに高める方向の打ち手は譲渡価格を高める5つのポイントにまとめています。
3期分の決算書をどう見せるか
並べて、増減の理由を1行ずつ添える
買い手が3期分を求めるのは、単年の利益が偶然でないかを確かめるためです。したがって、3期を並べたうえで増減の理由を書き添えるだけで、資料の説得力は大きく変わります。「第2期は地価公示の業務量が増えたため売上が増加」「第3期は勤務鑑定士の採用により人件費が400万円増加」。この程度の1行で十分です。
A4用紙1枚に、3期分の売上高・正常化後営業利益・時価純資産・主要な調整項目をまとめた表を作っておく。それが、最初の面談で最も効く資料になります。
やってはいけない見せ方
一方で、避けるべき見せ方もあります。都合のよい1期だけを見せること、調整項目の根拠を口頭でしか説明しないこと、そして進行期の数字を出し渋ることです。決算から半年以上が経っているなら、試算表を出せるようにしておきましょう。
相談のタイミングは決算直後が有利
決算書は、確定した直後が最も説明しやすい状態にあります。記憶が新しく、税理士とのやり取りも残っているためです。初回相談で何を聞かれるかはM&Aの無料相談では何を聞かれるのかで具体的に紹介しています。
決算書を整えるために今日からできること
期中から区分経理をしておく
最も効果が高いのは、来期の期中から経理の区分を分けておくことです。代表個人に紐づく費用(私的な交際費、社用車、個人受益の保険料)を補助科目で分けておけば、翌期の決算書は正常化しやすい形で出来上がります。売却の1年前から始めれば、少なくとも1期分は「説明しやすい決算書」が手に入ります。準備全体の時間軸は引退3年前から始める準備リストを参考にしてください。
税理士に、売却の可能性を早めに共有する
正常化の作業は、顧問税理士の協力があれば格段に早く進みます。もっとも、売却の検討を知られたくないという事情もあるでしょう。その場合でも、「事業計画を作るため」「金融機関に実態を説明するため」といった形で、役員報酬や保険料の内訳整理を依頼することはできます。
なお、株式譲渡と事業譲渡では課税関係も、役員退職金の使い方も異なります。税務上の有利不利は個別事情で変わりますので、必ず税理士にご確認ください。株式譲渡と事業譲渡それぞれの課税の枠組みは鑑定会社を売ったら税金はいくらかで整理しています。
数字の「作り込み」は逆効果です
まとめ
オーナー経営の決算書は、そのままでは会社の稼ぐ力を表していません。買い手は正常化後の営業利益・売上の構成と継続性・時価純資産という3つの数字を見て、代表交代後に残る利益を読み取ろうとします。売り手にできる最も効果的な準備は、その読み替えを先回りして、根拠とともに自分から示すことです。
要点を振り返ります。
- 買い手が最初に見るのは、正常化後の営業利益、売上の構成と継続性、時価純資産と役員借入金の3点
- 正常化はオーナー固有の収支を調整する作業で、足し戻しだけでなく差し引きも行う
- 想定されるケースでは、決算書上120万円の営業利益が正常化により1,260万円となり、年買法2年分の目安は490万円から2,770万円へ変わった
- 3期分を並べ、増減の理由を1行ずつ添えるだけで資料の説得力は大きく変わる
- 正常化と粉飾を分けるのは根拠の有無。説明できない数字はデューデリジェンスで必ず露見する
- 来期の期中から区分経理を始めれば、1年後には説明しやすい決算書が手に入る
「利益が出ていないから売れない」と結論を急いでいるオーナー鑑定士のあなたへ。その判断は、正常化前の数字に基づいていないでしょうか。決算書3期分と売上明細があれば、実質的な稼ぐ力はその場で概算できます。
当社は不動産鑑定会社・鑑定事務所に特化したM&A仲介として、売却の進め方や企業価値の考え方、手数料を事前に明示したうえでご相談に応じます。鑑定会社の売却・承継・買収をご検討の方は、秘密厳守の無料相談をご利用ください。無料相談はこちらからどうぞ。
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鑑定業者の登録や専任の不動産鑑定士、公的評価の扱いまで含めた承継の全体像は鑑定会社のM&A・事業承継のページでまとめています。

執筆者
吉田 健人代表取締役社長・不動産鑑定士
外資IT企業で法人営業に従事するかたわら、不動産鑑定士として株式会社KRE Appraisalを設立。鑑定実務と外資ITの営業・M&A支援の経験を活かし、不動産鑑定会社のM&A・事業承継を支援している。
不動産鑑定士/宅地建物取引士/賃貸不動産経営管理士
鑑定会社の売却・買収・承継を、同業の鑑定士に相談する
相談無料・完全成功報酬・秘密厳守。会社名を伏せたままでも構いません。
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